栄光への道:アレクサンダー・オスキン

たとえ数や力で格上の敵戦車を相手にしても、冷静に状況を判断して怯まずに挑み勝利を掴む。もし『World of Tanks』でそんな経験があるならば、すでにオスキン勲章を獲得しているかもしれません。オスキン勲章は、中戦車で1戦中に自車輌よりTierが少なくとも1つ上の敵戦車・駆逐戦車を3輌撃破したプレイヤーに授与されます。この勲章名の由来となったアレクサンダー・オスキンとは、いったいどのような人物だったのでしょうか? さっそく、彼の歩んできた道を辿ってみましょう。

生い立ち

アレクサンダー・オスキンは1920年4月8日にロシアのマロエ・コロヴィノ(現・リャザン州ザハロヴォ地区)で生まれました。1932年、オスキンは12歳の時にモスクワに移住すると、5年後の1937年に17歳にして義務教育を修了し、モスクワ金融経済専門学校へと進学します。税務調査官として働いていたオスキンは、1940年10月に赤軍に入隊すると、中央アジア軍管区の機甲科学校に入学します。1941年初頭に機甲科学校を修了するとすぐに、苛烈を極める第二次世界大戦での実戦が待っていました。

初陣

オスキンは1941年7月にT-26軽戦車の車長として第18戦車連隊に配属され、ブリャンスク戦線や西部戦線に派遣されます。ここでスモレンスクの戦いに参戦したオスキンは、バルバロッサ作戦によるドイツ軍の進攻を防ぐために勇敢に戦います。しかしドイツ軍の進撃を前に、オスキンの部隊は後退を余儀なくされ、同年10月にモスクワに撤退します。激しい戦闘を潜り抜けた後の10月18日、オスキンは生死を彷徨うような重症を負います。ちょうどドイツ軍に対する反攻を開始してから数週間後のことでした。

再び前線へ

この怪我の治療のため、オスキンは1942年1月までの数か月間をソルモフスキーで療養します。しかし怪我は完治していないにもかかわらず、医者の命令を振り切って前線へ戻ります。オスキンは枢軸軍とソビエト赤軍が激しくぶつかり合うスターリングラード攻防戦でT-34の無線手として復帰します。しかし前回の怪我から約1年後の1942年10月29日に、敵の空爆により再び重傷を負い、脳震盪を起こして病院に再び搬送されます。怪我から回復すると、オスキンはポルタフスコエ戦車学校で再び訓練を積み、翌年の1944年1月に前線へ復帰します。

初の戦果

復帰したオスキンは第53戦車旅団の司令官に就任すると、T-34-85に搭乗して第1ウクライナ戦線に赴任します。ここでようやく彼は初めて大きな功績をあげることになります。1944年8月12日、オスキンは歩兵小隊と共にヴィスワ川のサンドミェシュ橋頭保付近のオグルドウ村に潜んでドイツ軍を待ち伏せしていました。そしてこの場所で、数の上でも力の上でも圧倒的に格上のドイツ陸軍第501重戦車大隊と遭遇するのです。ドイツ軍には、東部戦線に初投入されたキングタイガーを含む戦車数輌が含まれており、オスキンの部隊との力の差は歴然でした。しかしオスキンが綿密に策した隠蔽が功を奏し、オスキンのT-34-85は200 m距離からのキングタイガー3輌を撃破し、もう1輌に損傷を与える功績をあげました。ドイツ側の完全な敗北でした。この戦闘で3輌のキングタイガーを初めて鹵獲することに成功したソビエト軍は、さっそく同戦車を研究所に送り、当時最高と謳われたドイツの戦車技術を研究しました。この戦闘で鹵獲された車輌のうち1輌は現在でもクビンカ戦車博物館で見ることができます。

教育者として

オスキンの功績はソビエト連邦最高会議で認められ、ソ連邦英雄としてソ連邦英雄金星章が授与されました。オスキンはマリノフスキー装甲士官学校に入学すると、装甲車に対する知識と教養をさらに深めたのちに、戦車兵訓練部隊指揮官に就任します。当時は、ソ連製の戦車に関する知識は彼の右に並ぶものはいないとも言われていたそうです。実戦から得た経験、諦めない精神、そして装甲車輌への情熱と知識を、未来の戦車兵たちに伝えるため、オスキンは1971年まで軍で後進の育成に従事します。そして1971年に中佐の位で退役し、2010年にこの世を去りました。

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