『World of Tanks』のマップのひとつとしてお馴染みの「カレリア」。第二次世界大戦時はこのカレリア地方で激しい戦闘が繰り広げられていたことをご存知ですか? この地域の支配を巡る2国間の戦いの歴史を振り返ってみたいと思います。
「カレリア」マップのBGMもどうぞお楽しみください。
カレリア―夏季マップ
『World of Tanks』の夏季マップ「カレリア」は、北の崖、南の渓谷、そして中央の湿地帯が特徴のマップです。遭遇戦以外のランダム戦でプレイできます。駆逐戦車や狙撃を得意とするプレイヤーには、数多くの戦術ポイントがあるマップとして人気があるマップのひとつです。
『World of Tanks』のカレリア
実在するカレリアは、フィンランドの南東部からロシアの北西部にかけて広がる森林と湖沼の豊かな土地です。共和制国家のフィンランドは、スウェーデン、ノルウェー、ロシアに隣接しており、長い歴史のなかで頻繁にスウェーデンとロシアの東西勢力が戦う場所として利用されてきました。過去にはスウェーデン=フィンランドとしてスウェーデン王国の一部であったものの、第二次ロシア・スウェーデン戦争時の1809年、スウェーデン=フィンランドは分割され、フィンランドはロシア帝国に割譲されました。ロシア帝国はフィンランドを支配下におくと、勢力を拡大していきました。
第一次世界大戦中の1917年、ロシア帝国内で2月革命が起こると、フィンランドはロシア帝国からの独立と完全自治を宣言し、同年12月18日にロシア政府はそれを承認しました。
現在のカレリア地領――自然豊かなのどかな渓谷地帯からは過去の激しい戦闘の痕跡は見られません
カレリアを巡る紛争の勃発
ロシア革命によって西カレリアはフィンランドとして独立。スウェーデンを含む近隣諸国はそれを認めたものの、ロシア帝国崩壊後に設立されたソ連政府との関係は好ましいものではありませんでした。そしてスターリンが政権を握ると、フィンランドとソビエト連邦の国境に関する問題が再燃するようになりました。というのも、ロシア第二の都市レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)からフィンランド国境までわずか数十キロしかなく、ロシアとしてはこのことに大きな危機感を感じていたのです。1939年11月、ソ連はフィンランドに対して国境線の変更や軍事基地設置、カレリアの割譲を要求しました。
しかしフィンランドはこの要求には応じず、またソ連もフィンランドからの要望に応じなかったため、両国間の交渉は決裂しました。1939年11月26日、ソ連とフィンランドの国境で諍いが起こります。ソ連は、フィンランド軍がソ連国境警備隊に対して発砲したと主張したのです。その2日後、ソ連は不可侵条約を破棄。フィンランドへの侵攻を開始します。実はこの紛争はソ連軍によって仕立て上げられたものだったという説がありますが、今日にいたるまで真実は明らかになっていません。
11月30日、ソ連はカレリアからフィンランドに侵攻を開始しました。総勢21部隊、450,000名での侵攻です。特に宣戦布告も行われないままの開戦となり、旧装備のままのフィンランド軍にとっては圧倒的に劣勢な状況での開戦となりました。12月6日までに、フィンランド軍は、カレリア地峡に築いた長さ約135kmの防衛線――マンネルハイム線まで後退を余儀なくされます。
※マンネルハイム線:ソ連軍の侵攻に対抗するためにフィンランド軍がカレリア地峡(現在はロシア領)に築いた長さ135km、幅90kmの防衛線。マンネルハイム線という名称は、フィンランドの陸軍元帥カール・グスタフ・エミール・マンネルハイムに由来する。出展:Wikipedia
当時のマンネルハイム線
冬戦争
1939年11月30日にソビエト連邦がフィンランドに侵攻し、「冬戦争」の火ぶたが切って落とされました。圧倒的な戦力の差をもって大軍で攻め込んだソ連軍でしたが、森と湖の国フィンランドでは大軍も一気に進攻することはできませんでした。地の利があり、また極寒の気候に慣れているフィンランド軍は、スキー部隊やゲリラ戦を展開してソ連軍を迎え撃ちました。大小合わせて2万もの湖沼があるカレリア地峡では、戦車隊はかなりの苦戦を強いられ、マンネルハイム線を目指すソ連軍の足を止めました。当初の計画よりも大幅な遅れに対して、スターリンは数々のプロパガンダをうちました。マンネルハイム線はフランスのマジノ線と同じくらい難攻不落の防衛線であり、起伏の激しい地形と多くの湿地帯、さらには極寒の気候ゆえにソ連軍の進攻を阻んでいると流布し、なんとかソ連の沽券を保とうとしたのです。
※冬戦争:1939年11月30日に、ソビエト連邦がフィンランドに侵攻した戦争です。別名「第1次ソ・芬(ソ連・フィンランド)戦争」出展:Wikipedia
※マジノ線:フランスとドイツの国境を中心に構築された全長約750kmのフランスの対ドイツ要塞線。当時のフランス陸軍大臣アンドレ・マジノの名前からマジノ線と命名されました。当時は難攻不落といわれましたが、縦深が浅く対空防御に欠けていたため、第2次大戦初期の1940年にドイツ軍に突破されました。この要塞への依存が、フランスの戦略思想を保守的・防勢的なものとしたと言われています。
フィンランド軍は必死の反攻を続けましたが、ソ連軍の進攻を完全に止めることは不可能でした。ソ連軍の兵力はフィンランド軍の約3倍であり、最新鋭の装備を誇る戦車隊と精鋭部隊を相手にしては、その力の差は歴然としていました。フィンランドのマンネルハイム線は徐々に陥落していきました。それでもフィンランド軍の抵抗は激しく、ソ連軍の損害は膨大だったと言われています。
「冬戦争」の間、フィンランドはソ連と何度か交渉を試みましたが、ソ連側はそれに応じることはありませんでした。2月下旬、スウェーデンとドイツは戦争終結に向けて介入を試みます。1940年2月29日、講和の交渉が再開すると、同年3月6日に停戦協定に達し、3月12日にモスクワ講和条約が結ばれました。フィンランドは国土面積の約10%に当たるカレリア地峡をソ連に割譲し、当時のフィンランド全体の人口の12%にあたるカレリア地峡の住民42万2千人が期限内にフィンランドの他の土地に移住することを迫られました。
残骸となったソ連T-34戦車を見つめるフィンランド兵士
当時フィンランド兵の軍服はドイツ軍のものによく似ており、実際フィンランド兵はドイツ軍が手配したヘルメットを装着していました。
終わらない戦争
戦争はこれで終わりではありませんでした。1941年6月にドイツ軍がソビエト連邦に侵攻。フィンランド領内からソ連軍に攻撃を行ったドイツ軍に対して、ソ連軍がフィンランド領内に報復空爆を行ったことを機に、フィンランドはソ連に対して宣戦布告をしました。継続戦争の始まりです。宣戦布告をしてからわずか約3か月の間に、フィンランド軍はカレリアの元の国境線まで侵攻すると、それから2年半の間フィンランドの支配下に置きました。
※継続戦争:第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争とも呼ばれる。第二次世界大戦中にドイツ軍がソ連に侵攻し、フィンランドがソ連に対して宣戦布告を行ったことを機に始まった戦争。フィンランドでは1940年に終結した冬戦争の1年後に始まった戦争であることから、継続戦争とも呼ばれています。出展:Wikipedia
第二次世界大戦時、フィンランドは中立を表明しており、今回の戦争はあくまでもソ連とフィンランド間のものだと主張していました。それでもフィンランドの勝利はドイツ軍に大きくかかっていたことは言うまでもありません。1943年にスターリングラードの最後のドイツ軍部隊が降伏すると、フィンランドは自分たちに勝ち目がないことを悟りました。一刻も早い戦争からの離脱が必至となりますが、講和は結ばれないまま時間だけが過ぎていきました。1944年6月、ソ連はカレリアで大規模な攻勢を開始。自走砲でフィンランド軍に攻撃を行い、窮地に追い詰めました。
圧倒的な戦力の差の前にフィンランド軍は壊滅状態となり、戦争の敗北を認めました。1944年9月19日、フィンランドとソ連の間でモスクワ休戦協定が調印され、その24時間後に完全に戦闘を停止しました。この協定でフィンランドはソ連に対して多額の賠償金を支払うことになり、また国境は再び1940年に合意した地点に戻され、カレリアは再びソ連の支配下に入りました。しかし1991年のソビエト連邦の崩壊とともに、カレリアはロシア連邦北西連邦管区に属するカレリア共和国となりました。
カレリア共和国 ――特徴的な木製の建造物は観光スポットとして有名です