新しいフランス車輌はユニークな戦車が勢揃いです。これらの車輌の特異性は第二次世界大戦、そして占領によりフランスの戦車開発が一旦中断してしまったことにあります。World of Tanksへのフランスからの新入生たちがどのような経歴を持つのか見て行きましょう。
1930年代にはフランスの軽戦車ルノーFT-17はかなり陳腐化していました。そのため、フランス陸軍は広く産業界から新車輌案を求め、FC社(Forges et Chantiers de la Méditerranée)もそれに参加した。
1935年4月に試作車のテストが行われ、30mmから40mmへの装甲の強化などの変更を経て1936年にFCM 36として採用されました。
戦車開発史的に見て、この車輌のデザインは革新的と言えるでしょう。良い角度で取り付けられた装甲は頼りになるもので、当時の徹甲弾に対しては高い防御性能を誇りました。ディーゼルエンジンは高出力で高効率、溶接で作られた車体も最先端を行くものでした。
FCM 36は軍を満足させる性能でしたが、2つの大きな問題がありました。その用途を考えると重すぎたのと、価格が高すぎたのです。この車輌は最終的には100輌程度が生産されました。
この車輌は1934年に歩兵支援用に設計されました。FCM 36と比べてそこまで革新的なデザインではなく、装甲は鋳造ボルト止めで、装甲板の配置はほぼ垂直でした。しかし、当時の工業プロセスを最大限活用して作られたため、製造が簡単で比較的安価でした。
R35の重量は10.6トンで、37mm戦車砲と小口径の機関銃を装備していました。装甲は最大で44mmで、搭乗員は2人でした。1938年にはシャーシの改良と長砲身の37mm戦車砲の搭載が行われました。この新型の重量は12.5トンまで増え、R40の名前が与えられました。この型の車輌は120輌生産されました。
Renault R35は第二次世界大戦中もっとも使用されたフランスの軽戦車でした。1,500輌あまりが生産され、550輌以上が輸出されました。フランス軍はこの車輌を戦争のすべての段階で利用し、ヨーロッパ、シリア、チュニジアそしてアルジェリアなどで活動した記録があります。
この中戦車はフランスの実質的な機甲科である騎兵科のために作成されました。フランスにのみ採用されたこの車輌はソミュア社によって1935年に製作されたものですが、1940年になっても通用する高い性能を誇りました。
車体は鋳造ボルト止め構造ですが、砲塔は一体成型で、最大40mmの厚さでした。武装は47mm戦車砲と7.5mm機関銃で、搭乗員は3人、500輌が生産されました。
第二次世界大戦中この戦車はフランスとチュニジアで戦闘に投入され、その後300輌程度がドイツ軍に鹵獲されました。鹵獲された車輌は主に対ソ戦に投入されました。その後1944年にヨーロッパ戦線に再び戻ってきたフランスが取り返したSomua S35を再びドイツに対して利用しました。
1939年の春からSomua S35の近代化案の準備が行われ、車体とサスペンションの改良が提案されました。Somua S40と呼ばれた試作車には更に溶接砲塔が搭載されました。S40は1940年7月に生産開始されるはずでしたが、ドイツの侵略そしてフランスの敗北により幻のものとなりました。
占領下の1942年にモーリス・ラヴィロットが指揮するグループによりS40の大幅な改修が計画されました。この計画は車体やエンジンのデザインをほとんど変えずに性能の底上げを図るものでした。加えて砲塔の改良も計画され、砲塔の製作がARLによって進められていたため、この砲塔を搭載する車輌の名称はSARL 42となる予定でした。
車体のアップグレードにより、強力で傾斜のある装甲と、先ほどの新しい砲塔が追加されました。ARLの砲塔は正面からのシルエットが小さく、この頃のフランス戦車には珍しく溶接を活用していました。
しかし1942年にフランス全土が占領されるとSARL 42計画も中止されました。
1930年代なかばに歩兵支援用に新しい中戦車が必要になり、最大60mmの装甲と敵戦車と交戦できる主砲などの必要な仕様がまとまったところで軍はルノーを含む7社から案を求めました。この車輌はG1と命名されます。
特筆すべき点として、この車輌の初期案のひとつに自動装填装置付きの75mm砲を無人砲塔に搭載するアイディアがありました。これは世界初の試みでしたが、当時の技術水準からすると複雑すぎるため、最終的にはこの計画は断念されました。
G1Rプロジェクトは車輌に傾斜装甲が施された戦車を作る試みで、半球形の砲塔は車体の後方に配置されました。主砲は47mm砲ですが75mm砲に置き換える案もありました。
試作車が1輌作られた段階でドイツの侵略により1940年にプロジェクトは打ち切りになります。
第二次世界大戦と戦時中の占領によりフランスの戦車産業は一時中断されますが、フランスは戦車産業を急ピッチで復興させます。そして、1956年に西ドイツと共同で主力戦車を開発することになります。
その時のフランスの案は一見奇妙なものに映るでしょう。装甲はほとんどなく、コンパクト性と機動力が重視されています。これは1950年代に発展したHEAT弾により従来の装甲はほとんど意味を成さなくなったからです。その結果、小さくて機動力のある車輌の方が撃破されにくいという理屈のもとで戦車が開発されるようになりました。
1961年に最初のプロトタイプが作成されAMX 30とい命名されます。この車輌はNATOの第1世代主力戦車の中でもっとも軽量なもので、AMX 30は整地では65km/hまで出すことができました。主砲は105mm戦車砲を搭載しました。
その後、試作車のテストは1965年まで行われ、AMX 30はフランス軍によって採用されます。
フランスの主力戦車は1966年に量産開始され、1967年には部隊に配備されました。車体は鋳鋼の溶接で砲塔は一体鋳造でした。
新しい戦車は車長用キューポラにパノラマ眼鏡を装備しており、車輌に動力を与えているのは多燃料ディーゼルエンジンでした。主砲の105mm戦車砲は砲手だけではなく車長によっても操作できるようになっており、主砲の精度を上げるため、砲身にはサーマルスリーブが装着されていました。副武装は同軸の12.7mm機関銃またはリモート制御の20mm機関砲と7.62mm機関銃のコンビネーションでした。
試作車輌と同様、フランスはAMX 30でも機動力を重視しており、重量が30トンから36トンに増えたにも関わらず、強力なエンジンのおかげで機動性はほとんど変わりませんでした。その後度重なる改修を受けながらもAMX 30は1997年までフランス軍に使われ続けました。