ドイツは戦車大国として歴史に名を轟かせていますが、ドイツ戦車は一晩で形になったわけではありません。ドイツが最初に作った戦車はお世辞にも良いものとは呼べませんでした。その最初の戦車、Sturmpanzerwagen (突撃戦車) A7V を見て行きましょう。
<ドイツ、ムンスター戦車博物館に展示されている A7V のレプリカ >
初めて戦闘に投入された戦車はイギリス海軍により開発された菱型戦車ですが、当時世界各国では様々なユニークなアイデアが試されていました。第一次世界大戦が始まる前、ドイツとその同盟国オーストリアは自走砲架 "Motorgeschuetz" を設計します。その後 1913年 に陸上装甲巡洋艦 "Landpanzerkreuzer" という車輌が実験されますが、どちらの車輌も軍により採用はされませんでした。
しかし、1916年9月 にイギリスの マーク IV 菱型戦車に直面したドイツ軍は独自の戦車開発に乗り切ります。マーク IV 戦車には 6ポンド砲 を搭載する雄型と ヴィッカーズ機関銃 を搭載する雌型が存在しました。
A7V の装甲はもっとも厚い箇所で 30mm で、イギリスの マーク I と比べて倍以上ありました。主砲はロシアからの鹵獲品で、正面に取り付けられた 5.7 cm マキシム・ノルデンフェルド砲 でした。また、各方向に向けて6機 の機関銃が装備されていました。武装は車輌によっては多少のバリエーションがあったようです。サスペンションにはコイルスプリングが利用されました。コイルスプリングは不正地の衝撃を緩和してくれましたが、A7V は菱型戦車と比べて突起物や塹壕突破能力が欠いており、砲撃によって荒れた土地を進むのにはあまり向いていませんでした。
< 第一次世界大戦中の A7V 戦車 >
A7V の乗員は 18名 で、車長、操縦手、そして各砲や機銃に砲手と装填手を 1名 ずつ、そして機関兵が前部と後部戦闘室に 1名 ずついました。内部通話装置はなく、車長は各砲手や機銃手に射撃命令を下さなければならなかったのですが、もちろん不可能でした。A7V の配備は 1917年10月 から始まり、陸軍は 100輌 を発注しましたが、戦闘モデルは 11輌 のみで、他の車輌は A7U 輸送車でした。
陸軍ははなから A7V が戦闘で大して役に立つとは考えていませんでした。ドイツ軍は A7V の問題を把握しており、その部品を利用して鹵獲した菱型戦車を模倣しようとし、全周履帯を持つ A7V/U (Umlaufende Ketten) の開発に取り掛かります。主砲は 77mm砲 に強化され、菱型戦車としてはかなり強力なものになる見込みでしたが、試作機が完成したのは 1918年6月 で、発注が行われたのは 9月 でした。この頃にはドイツ軍の敗北は濃厚で、A7V/U は実際に生産されることはありませんでした。A7V/U が生産された暁には、機銃付きのキューポラが追加された発展型の A7V/U2、そして機銃のみを装備した A7V/U3 も計画されていました。しかし、これらの戦車が第一次世界大戦の戦場を走ることはありませんでした。そして、第一次世界大戦後、軍備縮小によりドイツの戦車開発は一時中断されます。
< ドイツの A7V/U は菱型戦車の特性も取り入れました >
Wargaming Asia Historical Issue vol.01(Jan.2014.1st)