栄光への道:シドニー・ヴァルピー・ラドリー=ウォルターズ

『World of Tanks』のプレイヤーの憧れ――英雄勲章「ラドリーウォルターズ勲章」。
この勲章はTier V以上の車輌を使用して、1戦中で敵車輌を8~9輌以上撃破したプレイヤーに付与されます。皆さんもこの勲章の獲得条件はよくご存知だと思います。恐らくラドリーウォルターズに関しても、どこかで聞いたこと、読んだことがあるでしょう。その名が勲章名に冠されたシドニー・ヴァルピー・ラドリー=ウォルターズとは、いったいどういう人物だったのでしょうか? 今回は彼とその功績について、歴史的背景を交えながら少し深く掘り下げてみたいと思います。

シドニー・ヴァルピー・ラドリー=ウォルターズ(Sydney Valpy Radley-Walters)はカナダのケベック州ガスペに生まれ、1940年10月にカナダ陸軍シェルブルック軽騎兵連隊に入隊した。2年間の軍役を経たあとの1942年1月、第二次世界大戦の戦火が拡大するなか、ラドリーウォルターズが歩兵将校として配属されていたシェルブルック軽騎兵連隊は、第27機甲連隊に再編された。戦況が一刻と変わりゆくなかで、決して珍しくはない部隊再編。

この出来事が彼の運命を決定づけたことは、その当時はまだ誰も知る由はなかった。第27機甲連隊は第2カナダ装甲旅団を構成していたため、ラドリーウォルターズは第2カナダ歩兵師団の援護として1944年6月6日のノルマンディ―上陸作戦に派遣された。M4中戦車部隊の指揮官に任命されたラドリーは、「カリブー」の愛称を持つシャーマンファイアフライに登場し、前線に赴いた。

D-Day2日目の6月7日、彼の中戦車部隊はドイツの第12SS装甲師団と交戦状態に入った。歩兵以外の特別訓練は受けていなかっ多にも関わらず、ラドリーウォルターズのシャーマンファイアフライは見事IV号戦車を撃破。これを切先に、戦車戦の経験が無いに等しいラドリーの目覚ましい活躍は続いた。

D-Day作戦が進むなか、ドイツ軍の脱出路を塞ぐためにファーレーズの町の北の高地が新たに攻略目標となった。トータライズ作戦である。このトータライズ作戦にあたったラドリーウォルターズの戦車部隊は、サン・テニャン・ド・クラマンスニルにほど近い峡谷へと進撃し、ドイツ軍SS第101重戦車大隊に奇襲をかけるべく待ち伏せていた。第二次世界大戦中の2年間で戦車130輌以上、対戦車砲130門以上を撃破し、黒騎士として恐れられたドイツ軍戦車エースのミハエル・ヴィットマン率いる戦車大隊である。

そのSS第101重戦車大隊でさえも、両側から挟みうちにあったうえに、数の上でも劣っていたとあれば、どちらに勝機があるかは火を見るよりも明らかであった。交戦からまもなく、ヴィットマンが搭乗したティーガー007号は車体側面にシャーマンファイアフライの直撃弾を受け、大破炎上した。

爆破の衝撃でティーガーの砲塔は数メートル先に吹き飛ばされたと言われている。交戦開始からわずか30分でドイツSS第101重戦車大隊は撃破された。

D-Day終了後もラドリーウォルターズは数々の戦功をたて、その優秀な部隊指揮に対して勲章が授与されている。また、これだけの功績をあげながら、彼には奢ったところはまったくなく、人望が非常に厚かったと伝えられている。戦時中、ラドリーウォルターズにとって最も重要だったのは、部下を守ることであった。戦闘における外傷だけではなく、戦争によるトラウマに関しても心を砕いていた。

過去にはラドリーが指揮していた部隊が3度撃破され、その際に彼自身も2度負傷していた。また偵察車輌で走行していた際には、地中に埋められていた地雷が車輌直下で爆発し、車輌は大破、彼は意識不明の重体になったこともあった。

このような重大な事態を乗り越えては、再びシャーマンに乗り込み、終戦まで西側の戦車エースとして活躍した。終戦までに撃破した戦車は18輌。この記録は西側の連合国においてトップを誇る。この功績が讃えられ、ラドリーウォルターズに殊功勲章と武功十字章が授与された。

『自分は特に人望が厚かったとか、みんなに好かれていたというわけではありません。
一緒に戦ったみんなが
私に協力してくれたんです…… 』
シドニー・ヴァルピー・ラドリー=ウォルターズ

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