砂漠迷彩の運用と歴史

砂漠における戦車戦――進攻の妨げになる障害物がほとんどない広大な大地。自然が織りなした起伏を利用して、好きな方向から敵に攻め入り、奇襲攻撃をかけて敵を撃破――! 実際の砂漠での戦闘はそんなに容易なものではありません。遮るものがない広大な大地で容赦なく照りつける太陽。ラジエーターの冷却水は瞬く間に沸点に達し、砂を吸い込んだエンジンはすぐにエンストを起こしてしまう。灼熱の大地で身動きが取れなくなった戦車隊の戦車兵たちは、敵はもとより、熱と渇きと戦うことになる。 

第二次世界大戦時、北アフリカの砂漠で大規模な作戦が決行された。のちの北アフリカ戦線である。1941年、イギリス軍の北アフリカ進軍を阻むために派遣されたイタリア軍は苦戦を強いられていた。ドイツ軍はイタリア軍を支援してイギリス軍の侵攻を阻止すべく、陸軍の指揮官エルヴィン・ロンメルを「ドイツ・アフリカ軍団」の司令官として北アフリカ戦線に派遣した。のちに「砂漠の狐(Desert Fox)」と畏怖されることになるロンメルは、数々の巧みな戦術を駆使してイギリス軍に反攻するも、エル・アラメインの戦いで戦力不足による戦闘膠着状態に陥った。もはやどちらが早く攻撃作戦に出られるかの競争――言い換えれば、どちらがより多くの、そしてより進化した戦車を確保できるかの競争であった。

この北アフリカ戦線では多種多様な戦車が運用されました。その中には奇抜な外観のものも含まれていました。今回は砂漠迷彩に焦点をあてて、歴史の一ページを紐解いてみましょう。

“砂漠”迷彩

砂漠地帯で戦車に塗装を施すのは容易ではありません。まるでやすりにでもこすられたように、砂が塗装をはがしてしまうからです。また強い直射日光が照り付ける環境では、塗装はわずか数週間で塗り直さなければならないほどに色あせてしまいます。色あせた迷彩の上にこびりついた砂。これが北アフリカに配備された戦車の一般的な外観です。下のM4A1中戦車の比較写真をご覧ください。左側の写真は砂漠地帯で運用されているM4A1の写真です。一般的なオリーブドラブの塗装を施された車体の表面に砂がびっしりとこびりついているのが見て取れます。サハラ砂漠の過酷な環境が塗装に与える影響が垣間見える貴重な写真です。

興味深いことに、冬季迷彩は工場で塗装されることがほとんどなかったのに比べ、砂漠迷彩は工場で塗装されていました。特にロンメルが率いた「ドイツ・アフリカ軍団」の戦車は、工場で塗料「RAL 1002」(砂色)に塗装されていました。1942年までには、ドイツ軍は北アフリカ戦線用の塗料をふたつ開発していました。ひとつ目はRAL 7027と呼ばれた灰色の塗料です。この塗料は当時一般的だった「Schwarzgrau RAL 7021」(灰黒色)よりも明るめに調合されています。ふたつ目の塗料は薄茶色で「RAL 8020」と命名されました。これらの塗料が施された戦闘車輌のほとんどはロンメルの元に届くことはありませんでした。ほとんどはソ連対ドイツの前線に配備されたと考えられます。

 

1943年までにはドイツ軍は戦車の基本迷彩色にドゥンケルゲルブを採用し、すべてのドイツ装甲車輌の車体がダークイエローに塗り替えられました。砂漠地帯ではドゥンケルゲルブの方が適していたのです。しかしこの迷彩色が施された戦車が戦地に配備されるようになった頃には、ロンメルの部隊はすでに前線から敗退していました。

アフリカおよび中東に配備されたイギリス軍の戦車は、こげ茶色に塗装されました。しかし黄土色の砂漠地帯では、こげ茶色の車体はかえって目立ってしまうため、自らの手でより発見されない外装に変える戦車兵もいました。この「デザート イエロー」塗料はドイツ軍の迷彩色よりも明るめに調合されていました。このような違いは塗装直後こそ際立っていましたが、砂漠地帯の過酷な環境下では、両軍の塗装はほぼ見分けがつかないくらいに色あせてしまいました。

イギリス軍が使用していた原料は生コンクリートでした。戦車の車体表面に生コンクリートをランダムに塗布した上に砂をかけてたものを砂漠迷彩として運用しました。迷彩としては非常に優秀でしたが、ひとつ大きな問題がありました。砂漠は黄色一色ではないという点です。もちろん黄土色の砂に覆われた地帯がメインではありますが、場所によっては灰色の岩場も存在します。

1941~1945年の間、ソ連は砂漠での戦闘には参戦しませんでしたが、砂漠用の迷彩は準備していました。ソ連軍の砂漠迷彩の基準は1939年8月にResearch Institute of Armored Vehicleによって制定されました。茶色と淡い砂色が混ざったこの迷彩色は中央アジア用として開発されました。

砂漠迷彩のバリエーションと運用

砂漠用の迷彩は黄色の濃淡を基本としてデザインされていましたが、例外もあります。例えば、イギリス軍では灰黄やダークグレーのまだら模様に青色の縞模様が入った迷彩を採用したこともあります。均等に並んだ島模様は迷彩として有効だった試しがなかったように、イギリス軍のこの迷彩も北アフリカ戦線の初期に運用されただけで、その役目を終えました。

やがて縞模様は使用されなくなり、主に斑模様や不規則な水玉模様が多用されるようになりました。これらの模様は太めのペイントブラッシではっきりと大きく丁寧に車体に描かれ、時にはカーキ色のまだら模様を黒色の塗料で縁取ることもありました。

一般論として、イギリス軍は迷彩にそれほど注力しませんでした。繰り返しになりますが、砂漠の過酷な環境下では、迷彩にどんなに手と暇をかけても、すぐに色褪せてしまいます。そんな理由から、やがては戦闘車輌を含めた装備品一式が灰黄色一色に塗装されるようになりました。もちろん塗装が必要な際は、手元にある資源だけでできうる限り最高の塗装に仕上げました。例えば、フランス軍第9軽騎兵(ユサール連隊)は黄色いベースカラーの上に形状様々な深緑色の斑模様の迷彩を描き、それを迷彩として運用しました。

またドイツ軍も積極的に自軍の戦車に迷彩を施しませんでした。

アフリカ戦線と東部戦線では、くすんだ黄色のベースカラーに茶色の斑模様が描かれた2色迷彩が運用されました。最も迷彩の運用が多かったのは、戦車隊です。Tiger戦車やPanther戦車が隊列に加わっていた部隊でも迷彩を多用しました。

北アフリカ戦線では、ドイツ・イギリス両軍にとって迷彩はそれほど人気はありませんでした。また両軍の迷彩の基本色がたいへん良く似ていたことから、遠距離からは敵味方の区別がつかなくて困るとの兵士たちの苦情にかんする記録が残っています。

また他の地帯と違って、砂漠では戦車隊は自立していなければなりません。燃料、弾薬、水、砂避け、テント、迷彩ネットなど、すべて自分たちで運搬する必要があります。トラックでの備品の運搬は危険と隣り合わせです。むしろ戦車で備品を運搬したほうが、よほど確実だったのです。

戦車側面に燃料と思われるタンクを、後部には様々な備品を積んで走行する様子を写した貴重な一枚です。戦闘開始直前に搭乗員たちが備品や所持品を戦車から下ろして出撃していました。

原文(ロシア語): Vladimir Pinaev

出展:

  1. Kolomiets M., Moshchansky  I.  Camouflage of Red Army tanks 1930–1945.
  2. Zaloga,  S. Blitzkrieg. Armor Camouflage and Markings, 1939-1940.
  3. White,  BT  British Tank Markings and Names.
  4. Mesko,  J.  US Armor Camouflage and Markings World War II.
 
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