自走砲に反攻した軽・中戦車隊――。 今回の『栄光への道』シリーズは『World of Tanks』の玉田美郎勲章の名前を冠した人物についてです。この勲章は軽戦車で自車輌よりもTierが一つ以上格上の敵自走砲を2輌以上撃破したプレイヤーに授与されます。さらに、この条件を達成するには、戦闘終了まで生存していなければなりません。
このように厳しい達成条件が設定された勲章の名前を冠した人物には、いったいどのような歴史があったのでしょうか?彼の残した軌跡を一緒に辿ってみましょう。
玉田美郎は1891年9月23日、新潟県糸魚川市に生まれました。彼の幼少期について記した文献は残念ながら残されていません。彼の軍歴がスタートするのは22歳で陸軍に入隊した1913年です。1913年5月に陸軍士官学校を卒業すると、玉田美郎は12月に歩兵少尉として栄進の第一歩を踏み出します。
1935年に歩兵中佐に任命されるまで、順風満帆に栄進を遂げます。ただ彼自身は元々は歩兵の出身。自身が本当に装甲部隊に合っているかどうか疑問を持っていたようです。1936年、玉田美郎は陸軍戦車学校の教官に任命されます。しかし1937年7月7日に盧溝橋事件が起こったことを契機に、玉田は戦争の準備に注力せざるを得なくなります。
1939年5月、満州国とモンゴル人民共和国の境界線をめぐって紛争が勃発。玉田美郎の名が知られるようになる「ノモハン事件」です。
玉田は独立混成第1旅団麾下連隊長として、九五式軽戦車35輌、八九式中戦車8輌、九四式軽装甲車3輌率いて戦史上初の作戦の決行にあたります。装甲部隊による大規模な戦車夜襲です。
1939年7月2日午後6時10分、玉田率いる戦車第4連隊は夜襲作戦に向けて進軍を開始。その後に第3連隊が続き、バルシャガル高地への攻撃を開始します。ソ連自走砲からの砲火を潜り抜けながら進攻を続けていた第3連隊が午後8:00に交戦状態に入ると、玉田の第4連隊は敵自走砲を避けるように侵攻方向をほんの少し変えます。
この時点で玉田は気づいていました。自分たちと攻撃目標の間にはソ連自走砲の全部隊が潜んでいると――。その事実に気付いたにもかかわらず、闇夜の中、午後11時に目標に向けた攻撃開始令を出します。
ほんのわずかの偶然か、運命のいたずらか。深夜過ぎに戦場は雷雨に見舞われます。厚く垂れこめた雲が月明かりさえも遮ってしまう闇夜の中で、激しい雷の閃光がソ連軍の敵車輌の位置を鮮明に照らし出したのです。この時、日本軍の姿はソ連軍には見えていませんでした。玉田の部隊が目標の数百メートル以内に到達したとき、再び稲妻が空を走り、その時初めて日本軍の進撃がソ連軍に露呈します。ソ連軍は慌てて砲撃を開始しますが、時はすでに遅し。玉田の部隊は自走砲にとって近すぎる位置まで接近していたのです。
ソ連軍自走砲が放った砲弾は玉田の部隊の上空を通過し、命中することはありませんでした。ここで玉田は全面攻撃を指示します。第4連隊が総攻撃を開始し、ソ連軍防衛線を約900m後退させ、ソ連軍防御陣地の奥深くまで突破しました。この夜襲で玉田の部隊が撃破したと記録されてるのは次の通りです。
- 122mm榴弾砲、107mm砲、76.2mm野砲で編成された砲列:4箇所
- 装甲車輌10輌
- 装甲装軌車輌2輌
- 対戦車砲2門
- 迫撃砲5門
- トラック20台
しかしソ連軍の戦車の性能は想像していたよりも優秀で、玉田の連隊は劣勢な立場に追い込まれてしまいます。玉田は自信が率いる第4戦車連隊は全車輌撃破されてしまうのではないかとの恐怖に苛まれ、自死も考えるところまで追い込まれたそうです。なんとか体制を立て直すと、日本の防衛線まで退却します。しかし彼の部隊の戦車1輌がソ連軍に鹵獲されたと耳にするや否や、その責任感から、再び自死を考えます。
上官の説得によって自死を思いとどまった玉田は、陸軍少年戦車兵学校への配属を任命され、1941年には校長に着任、そして1944年3月にニューギニアの戦いに赴くまで若き戦車兵の教育に従事しました。この当時、生徒の年齢は若干15歳から17歳でした。
玉田美郎は第二次世界大戦が終結した1945年に退役し、1956年に新潟県糸魚川市教育長に就任しました。