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超大国日本 Part 3: 戦車戦

1937年当事の日本の機甲師団は、およそ400両に及ぶ戦車を保有していました。その多くが時代遅れの旧式でしたが、多くの戦闘で使われることで日本の数々の成功に貢献していきました。一方の中華民国軍は、対戦車装備はもとより戦車に対峙できる防衛設備が無かったため、為す術がありませんでした。日本の戦車はそんな脆弱な防衛線を突破する切り札として、また正面突破可能な移動トーチカとして使われていきました。

モンゴルでの機動戦

1939年、35両の九五式軽戦車 Ha-Go(ハ号)を含む87両の戦闘車両が、後にノモンハン事件と呼ばれる、ソビエト連邦8統治下にあったモンゴルのハルハ川周辺を巡る紛争に投入されました。このときの戦闘は日本が初めて経験した大量の戦車同士による戦闘となり、両陣共に次々と戦車がこのモンゴルの戦場に投入して、戦闘を激化させていきました。

ソビエトの戦車、日本の戦車

初戦では善戦していた日本軍の戦車も、ソビエト軍が投入するBT-5BA-10と対峙するにあたって苦戦を強いられることとなりました。ソビエトの戦車に搭載された45mm砲は、日本軍の車両の持つ装甲を簡単に撃ち抜いていきました。

しかし、ソビエトが保有する戦車は、日本軍の37mm対戦車砲の攻撃に耐え得る防御力を持ち合わせていませんでした。

この様にソビエトは日本よりも強力な火砲を持ち合わせていたものの、両軍の多くの車両が歩兵の銃弾に耐える程度の装甲厚しか無く、双方の対戦車砲にお互い耐えられませんでした。この戦術的なミスと、歩兵との連携の不足により、両陣で甚大な数の戦車が大破しました。

東南アジアにおける日本の戦車

新しいドクトリンに伴って、多くの企業が大規模な戦車の再編を目指して結集していきました。

194112月から翌年の5月まで、戦車は日本軍の作戦行動において積極的に活用されていきました。

戦場のChi-Ha(チハ)

九七式中戦車チハはフィリピンにてアメリカ軍のM3スチュアートと対峙しましたが、スチュアートの持つ機動性を前にチハが苦戦していったことにより、新しい改修を余儀なくされていきました。これによって誕生した新砲塔チハは、素晴らしい戦績を残すことで、離島での侵攻戦における有効性を実証していきました。

日本軍の戦車の戦略的運用

第二次世界大戦の前半において、日本軍は、ジャングルの中や山々の頂上、急流の河川の通過など、劣悪な環境での戦車の運用を想定しました。反撃に十分な備蓄の無い前線の敵陣に強襲するための戦術手段として投入されていきました。

1943年初頭、戦略的運用においてアメリカ軍が優位に立っていました。離島も次々と占領していき、日本列島に着々と進軍していきました。当事のアメリカ軍は空戦力と海戦力で既に優位に立っており、地上戦力においてもM4シャーマンとM5スチュアートが投入され、歩兵にはバズーカで有名な無反動対戦車ロケットランチャーが配布されるようになりました。これらは中華民国軍にも提供されました。

これらの戦力を前に次第に、日本軍も為す術が無くなっていきました。そのため夜戦やゲリラ戦、奇襲、そして自滅的な攻撃を行わざるを得ない状況となっていきました。1945年には、2両のチハとハ号戦車が、爆薬を外付けした状態のまま、全速力で前進するアメリカ軍部隊の先頭に居たシャーマン戦車に衝突して事例があったほどです。

これによってアメリカ軍の進軍が遅くなる事態となりました。

しかし、このような絶望的な手段が敗戦を覆すことはありませんでした。1945年の8月の関東軍の敗退を最後に、日本陸軍の活動は終わりを遂げました。関東軍が処分を予定した多くの戦車は、最後の戦闘に投入する前に鹵獲されてしまいました。

敗戦後

島での運用を想定してきた日本の戦車は、戦後の平和な時代を守るために、日々の訓練に使われています。

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