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チーフテンズハッチ: トブルク


4月25日はアンザック・デーだ(ANZAC Day:第一次大戦の激戦であったガリポリ上陸作戦を記念したオーストラリアの祝日。ANZACとはオーストラリアとニュージーランドをあらわす略号だ)。ANZACの若者たちが倒れた日――馴染みがなければ、復員軍人の記念日ないし戦勝記念日のようなものだと考えればいい。ただしアメリカでは場所によって形骸化している記念日とは違って、とても大切にされている。私が数年前にオーストラリアを尋ねた際には、この式典が国中に浸透しているのを見て本当に驚かされた。首都ではパレードが実施され、首相は内閣執務室や国会のドアをすべて開放して敬意を表する。そしてパレードはオーストラリア戦争記念館で終わる。この式典の重要性を示す象徴的な場所だ。

ANZACは第一次世界大戦、特にガリポリ上陸作戦で大きな犠牲を払ったことで知られている。実際、最初のANZAC Dayは1916年4月25日に設けられた。ガリポリ上陸作戦の翌年のことだ(ANZAC Dayには敵軍司令官の巨大なメモリアルが設けられるのも面白い)。しかし、この戦いはオーストラリアの歴史にとって、パレードに値する唯一の大きな戦役というわけではない。もう一つ、トブルクの戦いに触れずにはおけない。

World of Tanksのヒストリカル・バトルにはトブルクの戦いが導入されるので、ここで詳細を説明しておけるのは喜ばしい。この戦いはアメリカ参戦前の出来事であり、まだ北アフリカ戦役の重要性、特に進行中のトブルク包囲戦がもたらす意味が広く認識される前からはじまった戦いであった。トブルクの戦いは、大英帝国を守った戦いと呼ばれることもあるが、それはやや過大評価だろう。当時はまだ北アフリカはそれほど重要な戦場ではなかったのだから。それでもトブルク包囲は、大英帝国の歴史上最長の244日に及び、第二次大戦においては被包囲側が勝利した数少ない戦場でもあった。オーストラリア軍が主導した防御戦であったが、彼らが単独で戦ったわけではない。イギリス本国の支援がなければ戦い抜けなかったし、インド軍も一緒に戦っている。

まず地理を確認しよう。トブルクの戦略的価値を確認するために、ぜひ地図を引っ張りだして欲しい。ベンガジとアレクサンドリアの間になにもないのがわかるだろう。当時、ここにはイタリア軍が建設したバルディア街道という道路があって、この二つの街をつないでいた。トブルクはこの中間にある、唯一の良好な港であった。トブルクからアレクサンドリアまでの距離は、ノルマンディー海岸からドイツ本国に行くよりも遠い。そして補給で使える道路はひとつしかない。これが答えだ。トブルクは補給物資の主要積み下ろし港であったばかりでなく、主要街道のまさに中間点にあるかけがえのない拠点であった。道路を機能させたければ絶対にトブルクが必要だ。トリポリやベンガジの港湾能力では、軍の莫大な需要は満たせないのだ。

もっと大きな視点で見る必要もある。当時のイタリアは北アフリカのリビア(現地人口の1/8がイタリア人であった)と、東アフリカを領有して、小さな帝国を築いていた。このイタリア植民地は、イギリスの勢力下にあったエジプトを巧みに包囲する形になっていた。エジプトのスエズ運河は、イギリスと植民地の交通を40日も短縮させる戦略的要衝である。もっとも、イタリアとヴィシー・フランスが枢軸側についている状況で、スエズ経由のシーレーンがどれほど重要なのか、私にはよくわからない。しかし枢軸軍からすればスエズの奪取は連合軍の反撃拠点を潰すだけでなく、中東の油田を攻略する足がかりとなる。

トブルク包囲戦に投入されたオーストラリア軍は、英連邦所属のオーストラリア第2軍として編成されたこともあり、部隊の所属番号が「2/」から始まる部隊は、概ねオーストラリア軍である。最初にアフリカに投入されたのはイギリス第6師団で、1941年1月22日に彼らはイタリアからトブルクを奪取した。

オーストラリア軍はトブルク陥落後に、最初の戦車戦を経験した。

オーストラリア軍はトブルク陥落後に、最初の戦車戦を経験した。トブルク攻略で、第6師団は戦死者49名、負傷者306名を出したが、引き換えにこの重要な戦略的要衝を確保しただけでなく、捕虜2万5000、戦車87両(戦車とは呼びたくない代物)、砲200門を捕獲した。イタリア軍は興味深い敵であった。規模こそ巨大であったが、組織的な戦闘を遂行する能力も士気も低かった。それでも戦術的には見どころがある戦いをしているし、反撃も随所で行われているが、戦闘時間が短かったのだ。ここでのイタリア軍の戦いぶりについては書物に譲るが、いずれにしても数字はここでは問題ではない。彼らのあまりの弱体ぶりに、連合軍、ドイツ軍ともに驚かされたのだ。イタリア軍の砲兵部隊は粘り強く戦い、英連邦軍を大いに苦しめた。しかしトブルクが陥落した結果、膨大な対戦車砲や対空砲などの装備がすべて英連邦軍に引き渡されたしまったのだ。これは英連邦軍にとって願ってもない武器であった。包囲戦を開始した時、オーストラリア軍は約半分の113門の対戦車砲しか持っていなかった。

一方、英連邦軍の最前線はベンガジに達したが、ここで彼らは一旦前進を止めた。すでに大半の戦車は故障して修理が必要な状態であり、正面のイタリア軍は支離滅裂になっていて脅威ではないと見なされたからだ。この時は東アフリカ戦線、つまりエチオピアでもイタリア軍と戦わねばならず、ギリシアでも増援を必要としていたので、北アフリカでは戦線拡大を停止して守勢に移り、余剰部隊を他の戦線に送るよう求められたのだ。実のところ、前線ではこの兵力引き抜をそれほど案じてはいなかった。彼らは、イタリアの崩壊を防ぐべく、ドイツ軍がロンメル将軍麾下の分遣隊を派遣してくることを、ウルトラ暗号解読を通じて掴んでいた。

しかし、彼が間髪入れずに攻勢に出るところまでは予想できなかった。彼が頼みにできるのは第5軽師団だけであったが、これとて北アフリカに展開していたイギリス軍を凌ぐ機械化戦力であり、数も質も上回っていた。しかもロンメルはイタリア軍戦車を厭わずに使いこなしていた。結果として、ロンメルの反撃に直面したイギリス連邦軍は全面撤退を強いられ、戦線はエジプト国境近くまで押し戻された。戦局は振り出しに戻ったのだ。

議論の末に、イギリス軍司令部はトブルクで籠城戦に入り、枢軸軍の補給線を切断し続けることを決めた。トブルクさえ押さえておけば、ドイツ軍は東への進撃が困難になる。包囲戦を覚悟する価値は十分にあるのだ。このトブルク守備部隊に選ばれたのが、レスリー・モーシェッド将軍率いるオーストラリア第9師団であった。

モーシェッド将軍は1914年に、ライフル兵として軍でのキャリアを開始した。彼は軍務に精進し、ガリポリ上陸作戦や西部戦線の塹壕戦を体験している。特に塹壕戦の経験は、彼の戦争観を決定したようだ。精一杯控えめな表現ではあるが、苛烈な性格であったらしい。

枢軸軍の攻撃が始まるまでに、やや時間があった点では、彼らはイタリア軍よりは幸運であっただろう。オーストラリア軍はトブルク市街地から30kmほどの距離に市街地を取り囲むように半円状の陣地を構築した。市街地を砲撃から守るためとはいえ、やや距離を取り過ぎにも見えるが、実質的にこの戦区で唯一の地形障害が連続した場所ということもあり、すでにイタリア軍が一部で防御線を構築していた。半円陣地は、最前線の「レッドライン」と、その背後の予備陣地である「ブルーライン」で構築されていた。複数の小要塞が主防御拠点であり、縦深をともないつつ相互支援可能なように設置されていた。また要塞間には対戦車壕や鉄条網、地雷はもちろん、障害物として使えそうなあらゆるもので防御線が構築された。枢軸軍が前線に到達するまでに、可能な限り多数の部隊がトブルク周辺にかき集められ、少なからぬ部隊がドイツ軍戦線をすり抜けてトブルク陣地に集結した。

防御戦では3つの方針が定められた。ひとつは「無人地帯」を支配下に置くこと。これはモーシェッド将軍自身が第一次大戦で経験した塹壕戦の教訓に基づいている。守備兵はただじっと座って敵からの攻撃を待ち構えるのではなく、積極的な反撃で敵に主導権を渡さないという考えだ。オーストラリア人気質にもマッチしていただろう。2つ目は言うまでもなく主陣地線での戦闘で、3つ目は快速予備部隊を用意することであった。快速部隊とはいっても、実際には雑多な装甲戦闘車両の寄せ集めであり、20台以上のクルセイダー巡航戦車、10台ほどの軽戦車、4台のマチルダ戦車が中核戦力であった。急造のトラック車載の2ポンド砲対戦車砲まで頭数に入っていた。また包囲戦が始まった直後には、海上輸送により8台のマチルダ戦車が追加された。

ロンメル将軍の攻撃は間もなく始まり、1941年4月1日にはトブルクは枢軸軍の包囲下に置かれた。町を守る兵力は、オーストラリア兵1万5000,イギリス兵1万のほか少数のインド兵でった。オーストラリア第9師団の士気は非常に高かった。ロンメルはトブルクの守備は脆いと考えて、直ちに手持ちの戦力だけで攻撃を開始したが、誤りであることを思い知らされた。

ドイツ戦車のエンジンは2500km稼働させるごとにオーバーホールしなければならないが、トリポリからトブルクに自走するだけで、走行距離は2000kmをオーバーしてしまう。これを懸念した第5軽師団のシュトライヒ師団長は、整備に時間を割くよう要請したが却下された。イギリス軍が防備を固める前になんとしてもトブルクを陥落させる必要があると、ロンメルは考えたからだ。また1000km以上の進撃中に、まともな戦闘がないままイギリス軍を追撃していたので、トブルクでも大した抵抗はないだろうという油断もあった。誰もオーストラリア兵に注意を払ってはいなかったのだ。

トブルクへの攻撃は4月1日の早朝に始まった。先頭に立ったのはフォン・プリトヴィッツが指揮する第15戦車連隊で、リビアの砂漠を突っ切った後ということもあって、稼動戦車はなかった。ロンメルは集結中の歩兵旅団と対戦車砲部隊を増援として加えたが、これはイギリスに再びダンケルクの奇跡を繰り返させないための措置であった。戦闘結果には疑いを持っていなかったのか、ロンメルが指揮する攻撃は非常に散漫なものであり、多くの兵士が敵の阻止砲撃で斃れた(トブルク守備隊の「ブッシュ砲兵隊」と呼ばれた部隊はイタリアから鹵獲した砲を装備していたが、実じゃ彼らの中には訓練を受けた砲兵はほとんどおらず、高い戦意と現場の創意工夫だけで戦っていたのだ)。

イタリア軍から奪った 75 mm 砲を操作するオーストラリアの第17歩兵大隊の兵士

午後遅くなって、25台の戦車をかき集め第5戦車連隊が、アリエテ師団からもM13/40戦車やCV-33軽戦車の支援を受けつつ、半円陣地の南方で攻撃を開始した。彼らは第20オーストラリア旅団の戦線に突破口を開けたものの、対戦車壕に阻まれて動きが止まり、王立第1戦車連隊の反撃により敗北した。ドイツ軍は再編成に24時間使って翌日には攻撃を再開したが、こちらも失敗した。この時点でトブルクが簡単に落ちないことは明らかで、作戦の練り直しが必要になった。

2日の攻撃には、もう少し工夫が見られたあった。主光軸が入念に検討され、その突破口を射圧可能な敵陣地に対しては正確な阻止砲撃が加えられたのだ。支援砲撃とともに前進したドイツ兵は夜陰に紛れて前進した。それでも歩兵の攻撃はオーストラリア軍の断固たる阻止反撃に直面した。この戦闘で戦死したエドムンソン伍長は、ヴィクトリア十字勲章を死後授与されたが、これは大戦で初のオーストラリア人の受勲であり、かつ包囲戦で唯一の同勲章であった。

それでも夜明けまでには、ドイツ軍工兵は突破口を穿ち、第5戦車連隊の38台の戦車が陣地内に侵入した。オーストラリア軍は、戦車はそのまま通過させ、後続の歩兵に反撃を加えて切り離すという沈着な戦術で対処した。2ポンド対戦車砲の散発的な攻撃を無視して前進したドイツ軍戦車は、第1王立騎兵連隊の25ポンド砲の直接射撃に射すくめられた。この反撃を避けようとすれば、今度は別の対戦車砲陣地に飛び込んでしまうのだ。第3王立砲兵連隊の戦区でも似たような展開になっていた。モーシェッド将軍は前日までに要地偵察を命じていたので、たとえ仁地帯での阻止に失敗しても、突破してきた敵に対しては王立戦車連隊の巡航戦車やマチルダが駆けつけて撃退するという段取りになっていた。ドイツ軍はこの複合陣地を抜けずに退却を強いられた。戦場には15台の壊れた戦車が残された。捕虜となったドイツ兵は「君たちオーストラリア人が理解できない。ポーランド、ベルギー、フランスでは、一度戦車が突破してしまえば、前線兵士は抵抗をやめたものだ。しかし君たちは戦い続ける。戦車が突破しても、歩兵は戦いを続けているんだ」

翌日のイタリア軍主体の攻撃も同じような経過をたどった。突破した戦車は後続の歩兵と切り離され、そこから戦車が狙い打ちされたのだ。17日の攻撃ではイタリア軍の戦車が1マイルの深さまで侵入したが、結局は「トブルク戦車隊」によって撃退されてしまう。

枢軸軍が戦力を整えて攻撃を再開するまでには、一週間ほどの休息が必要となったが、当然、その間にも守備側は防御陣地を固めてしまう。22日から24日にかけて、ドイツ、イタリア、そしてオーストラリア軍は乱戦状態となったが、損害比較ではオーストラリア軍有利であった。23日はトブルクにいたごく少数の空軍部隊の活動が終了した。7機のハリケーンが60機あまりの敵機の攻撃に直面したからだ。この激戦に生き残った機はエジプトに逃れた。

ロンメルは30日に再攻撃を計画した。今回、陸軍最高司令部はパウルス将軍を派遣して、ロンメルの意図をつかもうとした。パウルスは攻撃開始直前に到着し、無責任な立場で戦局を眺めていた。

51日の攻撃は半円陣地の東側で始まったが、こちらは牽制攻撃であり主攻は西側正面であった。しかし今回もモーシェッド将軍は入念な準備をおこない、トブルク戦車隊を適切な位置に配置して、枢軸軍の意図をくじこうとした。それでも枢軸軍は火炎放射器搭載型CV-33まで投入して半円陣地の一角を占領しら。オーストラリア軍の二度の反撃はかなりの打撃となりつつも、枢軸軍を撃退するには至らなかった。むしろドイツ軍戦車に歯が立たないマチルダ戦車の姿は、守備兵にショックを与えた。

オーストラリア軍によりこの突破口を防ぐ試みは二日間にわたって行われた。しかしCV-33の支援を受けたM13戦車の反撃が有効であり、これも失敗した。

この戦況にドイツ軍は満足していたようだ。パウルスは報告書を作成すると、本国に帰還した。OKHは明確な言葉でロンメルに対し、これ以上トブルク攻略で貴重な物資を消費しないように要請していた。

かくしてトブルク包囲は一種の日常業務となった。守備兵を苦しめたのは、地上からの攻撃ではなく、枢軸軍機による爆撃であった。部隊は前線から離れられても、今度は後方で空襲にさらされた。最前線では、双方とも狙撃手の影に怯えなければならなかった。ドイツ兵は、オーストラリア狙撃兵の腕前に目を見張った。ノミやネズミも悩みの種であった。ネズミの話となると、ドイツ軍は塹壕にこもる敵兵をネズミと呼んで蔑み、必ず駆除せなばならないと息巻いていた。トブルク守備兵はこれを知ると逆手に取って、自分たちを「トブルクのネズミ」と呼ぶようになった。

トブルク包囲戦に巻き込まれたオーストラリア人は、陸軍ばかりではない。アレクサンドリアを拠点とする駆逐艦中心の「くず鉄艦隊」にも多数のオーストラリア人が加わっていた。彼らは砲艦から魚雷艇、果ては戦艦まで含むイギリス海軍とともに、トブルク周辺の敵を艦砲射撃するだけでなく、物資輸送や傷病兵、捕虜の積み出しにも従事した。HMAS「ウォーターヘン」は、第二次大戦で最初に沈んだオーストラリア海軍艦艇となった。空襲による直撃弾が原因だが、戦死者までは生じなかった。しかしHMAS「パラマッタ」は幸運ではなかった。U-559の雷撃を受けた同艦は、138名中114名の犠牲者とともに撃沈されたのだ(U-559は後にイギリスから攻撃され、エニグマ暗号を破られる原因のひとつとなった)。トブルクへの補給輸送のために、軍艦、民間船を問わず多くの船が沈められたが、HMS「レディーバード」は、水深3メートルほどの沖合で擱坐しても、3インチ砲で対空戦闘を継続した。

沈みゆくHMAS「ウォーターヘン」

包囲が6週間に及ぶと、イギリス軍総司令官のアーチボルド・ウェーヴェル将軍は、枢軸軍の戦線東部にある隙間に対して「ブレヴィティ作戦」を発動したが、失敗した。若干の前進は果たしたものの、断固とした反撃に直面したのだ(ハルファヤ峠ではイタリア軍の47mm対戦車砲の前にマチルダII戦車が沈黙した)。ドイツ軍は有利な立場を作りなおすと、トブルク包囲を再開した。

615日には、ウェーヴェル将軍は再度「バトルアクス作戦」を発動した。枢軸軍はこれを察知していた。イギリス軍の「明朝、我々は攻撃を開始する。今夜は十分に備えよ」という無線も駄々漏れであった。イギリス軍は再び高い授業料を払わされた。トブルク包囲は続き、砲撃や空襲にさらされた。「バルディア・ビル」と呼ばれた210mm列車砲も、この砲撃に参加していたようだ。

イタリア及びドイツ軍のプレッシャー

枢軸軍の航空部隊は圧力をかけ続けたが、これは水の消費という問題を引き起こした。汚れを落とすには水が必要であるが、砂漠では真水は貴重な物資であり、飲料用と機械整備用の割り当てが最優先されたからだ。爆撃で生じた汚れを落とすのに水は、海水を脱塩しただけの水を当てるしかなかった。この水は飲用には適さなかったが、機械用には使用できた。

8月初旬には、オーストラリアの2個大隊により枢軸軍突出部への反撃が行われたが、たった一日の戦いで息切れし、ドイツ軍60名の損害に対して、各大隊は188名と264名の損害を出した。これが、当初から包囲下に置かれたオーストラリア軍の最後の反撃となった。

なぜなら、政治の介入があったからだ。トブルクの、オーストラリア軍が新編されることになったのだ。オーストラリア第9師団がトブルク包囲の守備で酷使されている事実にオーストラリア本国の人々が気づき、過大な荷物を負わされていると批判が起こったのだ。事実、半円陣地内のイギリス兵やインド兵は、それほど激しく戦っているという印象はなかった。オーストラリアではこのことが重要な政治的問題となり、撤兵要求が強くなった。オーキンレック将軍は819日の「トリークル作戦」において妥協を見せた。オーストラリア第19旅団は任を外れて、コパンスキー将軍が率いる自由ポーランド軍の独立カルパチア旅団と交代となった。ポーランド軍は駆逐艦や巡洋艦、敷設艦で編成された輸送船団でトブルクに送られてきた。第51王立野砲連隊と第18インド騎兵旅団も撤退が決まった。

ポーランド軍を輸送中の場面

しかし第9師団の脱出は困難であった。919日から27日にかけて行われた「スーパーチャージ作戦(第二次エル・アラメイン戦の同名作戦とは違うので注意)」に割り当てられていた第24オーストラリア旅団は、第16歩兵旅団およびマチルダ戦車48台を装備していた第4王立戦車連隊と交代が始まった。

1012日から25日にかけての「カルティベイト作戦」で、オーストラリア第20および第24旅団が離脱し、第14および第23旅団、および第11チェコスロヴァキア大隊がかわりにトブルクに入った(チェコ大隊は後にポーランド指揮下となった)。しかし前夜に輸送船団が補足され、爆撃により敷設艦HMS「ラトーナ」が撃沈、他の艦船も大小の損害を受けた。大混乱の結果、揚陸作業は中断し、第13歩兵大隊が取り残されてしまった。第9師団の大半はすでにトブルクから脱出していたが、第13歩兵大隊の一部は、この境遇を羨みながら、最後まで仕事をしていたのではないか? 実際の彼らの考えはわからないが。モーシェッド将軍は残りの部隊と第70師団の指揮権をマッケンジー・スコビー将軍に託した。

スコビー将軍は新しい部隊を手に入れただけでなく、配下の戦車部隊も刷新された。第32機甲旅団の戦力は130台を上回っていたが、半数以上はマチルダIIが占めていた。ロンメルはこれを知らなかったが、1120日の総攻撃を賭して部隊を集結していた。しかし1118日にオーキンレック将軍が発動した「クルセイダー作戦」のおかげで、計画は台無しになった。この作戦に呼応して、21日にはトブルク守備隊が戦車を押し立てて反撃に出た。しかし日没までには同旅団の戦車は40台まで減少して、数日の間は攻勢に出られなくなった。

この段階でニュージーランド軍が姿を見せる。フライバーグ将軍配下の第2ニュージーランド師団がトブルク解放の戦列に加わったのだ。彼らはイタリア軍に食い止められたが。再編成後、第4王立戦車連隊の支援を得てふたたび攻撃に出ると、今度はボローニャ師団、特に第9ベリサグリエリ連隊を窮地に追い込んだ。トブルク側からの第32機甲旅団も攻撃を成功させ、包囲230日目にしてエル・ドゥダ付近でようやく外部の友軍と連絡を付けることができた。


ニュージーランド第19大隊のシドニー・ハートネル中佐は、第32機甲旅団のアーサー・ウィルソン准将と、エル・ドゥダで握手を交わした。

しかし連絡路はか細く、ドイツ軍の反撃で簡単に塞がれてしまった。128日には、トブルクの東側でイギリス軍歩兵と第7王立戦車連隊が反撃し、翌日には西側でポーランド部隊が同様の攻撃を実施した。

こうして244日ぶりに完全に包囲が破られ、トブルクは救出された。855名の守備兵が戦死し、494名が行方不明となった。また補給作戦では538名の水兵が落命している。この戦いではオーストラリア第9師団は戦死者744名、行方不明者476名を出した。彼らが勇敢に戦った事実に疑いはない。トブルクを守備しきったことで、イギリス軍はエジプトにおいて群を再建する時間を得た。これが、私がANZACパレードに加えるべきと考える、トブルク包囲戦の実態であった。

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